ケルトの森


 ケルト人とは誰か?
 「ケルト人」とは、ケルト民族が自らを呼んだ名前ではない。彼らは、仲間内では、自分たちを「ヘルウェティー族」とか「セクァニー族」とかいった父系氏族名で呼んでいた。「ケルト人」という名称は、前5世紀のギリシア人が、アルプス以北に住むバルバロイ=「異言語・異文化集団」を総称して「ケルトイ」と呼んだ言葉に由来する。当然その中には、言語や風俗を異にする多様な部族が含まれていたことが考えられ、古ヨーロッパ時代、西ヨーロッパに存在した民、いわゆる「ヨーロッパの父祖」としてケルト人を定義するのは、安直のそしりを免れない。何よりも「ケルト」とは、古代地中海世界にとっての「他者」の総称でしかなかったということを最初に確認しておこう。
 従来の定説では、彼らケルト人は、青銅器時代の末期に中央ヨーロッパのボヘミアのあたりに誕生し、その後、オーストリア・アルプスを中心に「ハルシュタット文化」(前700〜500年)と呼ばれるヨーロッパの第一鉄器時代の担い手、つまり、ヨーロッパで初めて鉄器を用いた民族として繁栄し、やがてフランス(ローマ名ガリア)に浸透して、「ラ・テーヌ文化」((前400年〜西暦100年)の担い手となり、最盛期の前400年〜300年の間にはアルプスを越えて、ローマやデルポイを脅かした剛勇の民だと言われてきた。ところが最近考古学の分野では、「ハルシュタット文化」や「ラ・テーヌ文化」という、古ヨーロッパ鉄器文明の時代区分と、特定の民族集団であるケルトを安易に結びつけることに対する批判が起こっている。大陸のケルト人に対する、古代ギリシアやローマの著述家たちの記述も、「異民族」としての彼らの<他者性>をことさら強調するものが多く、全幅の信頼を置けるわけではない。そうなってくると、唯一、科学的・客観的になされうる「ケルト人」の定義とは、インド=ヨーロッパ語族のうち「ケルト語派」を話す人々ということになる。
 インド=ヨーロッパ語族とは、18世紀にヨーロッパで発見された概念で、先史時代のインドとヨーロッパは同一の言語を話す、同一民族集団によって居住されていたというイデオロギーを基幹とする。現在の英語やドイツ語は、インド=ヨーロッパ語族の下位集団であるゲルマン語派に属し、イタリア語、フランス語、スペイン語などは、イタリック語派に属するとされる。それと同じ位置づけとして、「ケルト語派」なるものが存在し、大きく「ブリテン語」(Pケルト語)と「ゲール語」(Qケルト語)に分かれるという説である。現在残っている「ケルト語派」の諸語は、Pケルト語のウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語、Qケルト語のアイルランド語、スコットランド・ゲール語、マン島語である。これでもわかるように、前1世紀のローマによるヨーロッパ征服の結果、ケルト語文化の伝統を残すのはブリテン諸島とフランスのブルターニュ半島といった、ヨーロッパの西の辺境地帯がほとんどになってしまった。彼らをさして「周縁のケルト」(the Celtic Fringe) と呼ぶゆえんである。
 「ケルト人」という語が初めて文献に現れるのは、ギリシアのヘカタイオス(前548〜475年頃)による地図で、そこでは、アルプスの向こう側、現在のフランスあたりにCeltae の文字が読み取れる。
さっき、ケルト人とは、あくまでも言語学的に定義される民族集団だと言ったが、現在のヨーロッパの地名から、ケルト人の居住地域をおおよそ知ることが可能である。それは、西はイベリア半島半島・ブリテン諸島、北はドナウ河流域、西はカルパチア山脈、そして南は北イタリアまでを含む大規模な地域であった。当時の著述家は、ケルト語で彼らの居住地を「ヘルシニア(オークの木)の森」と呼んでいたという。オークの木は、通常「樫」と訳されるが、むしろ柏の木に似た葉を持つ落葉樹であり、これも、著述家たちの証言から、ケルト民族の宗教とされる「ドルイド教」の神木である。
 古ヨーロッパの森の民ケルトについては、そのほとんどがまだ明らかにされていないといっていい。にもかかわらず、私たちはケルトに惹かれ、ある時は民族運動の旗頭にかかげ、ある時は産業時代のノスタルジアのはけ口として、あるいは現代における「ヒーリング」の象徴として、ケルトを利用してきた。こういった「ケルティシズム」もまた、私たちにとっては興味の尽きせぬ事象である。果たして、ケルトは21世紀をどのようにいき抜けていくのか、私たちはケルトに何を求めていくのか、一緒に見守っていこうではないか。


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